'24/10/20 主日礼拝「エリシャの涙」水戸第一聖書バプテスト教会 武井俊孝牧師

列王Ⅱ 8:7~15

神の人は、彼が恥じるほどじっと彼を見つめ、そして泣き出したので

 

 よく尋ねられる質問で、「神が愛であるなら、なぜ戦争はあるのか」、に対する一つの答えとして、「戦争が起きるのは、神が愛であるのに、その神を離れるからだ」と言えるかもしれない。また神は背いて離れていく者を懲らしめることもある。

 神を離れて堕落した北イスラエルに、神は周囲の国々からの攻撃を使ってまで、神に立ち返らせようとされたことが聖書に記されている。

この聖書箇所の背景には、神はイスラエルに敵対する国として、アラムを立てられた。この時代の預言者エリシャは、神によってアラムにあるダマスコに遣わされた。

そこでアラムの王ベン・ハダドに仕える、知人のハザエルと会った。エリシャは、ハザエルに病床に伏せるハダドの先行きを問われた。エリシャは、神の御心で「必ず治るが、必ず死ぬ」と告げた。その時エリシャは涙を流した。エリシャは、ハザエルがハダドに取って替わり、アラムの王になって、イスラエルに残虐な仕打ちをすることを預言していたからである。ハザエルは表向きは従順に振る舞ったが、内では悪意に満ちていた。実際に、その後ハザエルはハダドを暗殺してアラムの王になり、イスラエルに残虐な仕打ちを加えるのであった。

 

この先の列王Ⅱ13:4で、エリシャが亡くなる前にアラムは滅ぼされるが、このような存在の者にも、神は油を注がれた。これは決してアラムの栄光を願われたものではなく、神がイスラエルの悔い改めのために、用いられたことである。

エリシャはこのような事を知っていても、なおハザエルをアラム王にするという、神の御心を伝えなければならなかったことが、エリシャの悲しみと痛みであった。

 

イザヤ43:4に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」とある。それに続き、「だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする」とある。人を用いてそうまでしなければ、神の愛が分からないとしたら心痛むことである。

そして、その最も大きな犠牲になられたのがイエス様であり、人が受けるべきあらゆる苦しみを受けられた方である。その方を通して神の愛を知ることになる。

神を悲しませた罪、そのために罰を受けるべき我々を、神はイエス様の十字架により救われた。

 

その事実を、改めて心に留めて歩んでいきたい。