'24/9/29 主日礼拝「神様の懐の深さは底知らず」東海福音キリスト教会 羽根坂恵衣牧師

聖書箇所 ヨハネ 18:37~40

わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。

 

この聖書の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、法廷での裁判の箇所である。

教会における信仰告白である使徒信条に、当時のローマ統治下のユダヤの総督である、ポンテオ・ピラトという人物が出て来る。

イエス様は地上に人として降誕されたが、その十字架の死にピラトが関わっている。

ピラトは積極的に、イエス様を死罪にしようとしたわけではない。

イエス様の裁判において、ユダヤの祭司等の指導者は、過越しの祭りの時に、罪のないイエス様を十字架につけようとした。

しかし当時ユダヤ人はその権利が無く、ローマによる裁きが必要なため、イエス様をピラトの官邸に連れて行った。

ピラトはイエス様に何の罪も見いだせず、ユダヤ人の間のもめ事として片づけたかった。しかし同時にピラトは無罪にすることで、ユダヤの統治を混乱させたくなかったので考えを巡らした。

        ピラトは恩赦を与えようとしたが、ユダヤ人はイエス様ではなく、重罪人のバラバの恩赦を選択した。

        ピラトは鞭打ち刑で済ませようと、イエス様に弁明の機会を与えようとしたが、イエス様は、裁きは神様の「上からの権威」のみによると述べられて、ピラトによる裁判を否定した。

この歴史上の一連の出来事は、全て神様のご計画によるもので、イエス様の十字架の死により、すべての人の罪が贖われて赦される計画であった。

人が持つ罪の原形は、アダムとイブが神様に背いたことに始まり、今に至るまで、神のようになりたいとの思いから神に張り合い、人間同士でも張り合ってきたことである。

ユダヤの大祭司は、自分たちは律法を守ってるから清いとの思いにより、神と張り合ってきた。また、ピラトは神よりも人を恐れた。我々もそのような者である。

逆にイエス様は卑しくなってお生まれになり、へりくだった生き方をされた。

イエス様の十字架は罪の贖いと赦しの印であり、我々一人一人に用意されている。

 

イエス様の救いを通して、自分の罪を見ることができ、罪の痛みを感じる生き方ができる。このような生き方を与えてくださる神様の恵みに感謝したいと思います。